昔、環状線は電車道だった
昔、環状線は電車道だった



 今池から笠寺観音、北頭から大江と、私の子供の頃は今の環状線を市電
が走っていた。空襲で今池の北、名古屋ドームあたりの飛行機工場は焼か
れ、堀田から熱田あたりの軍事工場も消失していたと思う。このあたりの民家
も空襲に見舞われたようだが、焼け残った家や空き地に建ったバラックや闇
市があったのだろう。焼失した工場は、戦後数十年手つかずのものもあった
りしたが、埋立地の大江あたりの工場は再建が早かった。焼け残った家やバ
ラックからはそれらの工場の始業朝8時を目指して、早朝から多くの労働者
が出勤していった。だから、朝の電車はいつも満員で乗り残される人々が安
全地帯に溢れていた。そして、どの電停のそばにも一膳飯屋があった。朝か
ら炊きたてのごはんと味噌汁の匂いがして、お兄さんたちがめしをかきこんで
いたし、夕方にはトンカツを揚げる美味しそうな匂いが立ち込めていた。朝食
をしっかり食べて出掛けなければその頃の肉体労働は出来なかったのだろ
う。体重を気にしながら、ゼリー飲料を片手に地下鉄の階段を行く現代のビジ
ネスマンとはわけが違うというところだ。話は変わるが、市電の走っていた頃
の修学旅行は、泊まる旅館に子供たちはその夜と次の朝食べる分の米を持
って行った。米の通帳がないと米が買えなかった時代は、米を持っての旅行
が正統なスタイルだった。
さて、昨年成立した食育基本法によってか、小学校で朝食を出すところが出
てきて話題になっている。学校給食を昼だけでなく朝も出すと言うのだ。近代
学校給食の歴史を考えると戦後のGHQの粉ミルクが出てくるし、食料難の時
代の子供たちはそれにどれほど助けられたかわからない。今でも、学校給食
は忙しいお母さんの強い味方なのだろうから良いとか、これ以上家族で食べ
る食事を少なくしてはいけない等の論議があるようだ。虐待を受けている子供
の中にはろくに食事を与えられていないこともあるようだから、そんな時は是
非お願いしたい。それに、ランドセルを背負って分団で登校する子供がゼリー
飲料をしゃぶっているのもどうかと思うから賛成しなくてはいけないのかもしれ
ない。だが、今の先生にその子の家族を含めた個別指導をお願いするの
は、先生方の現状を見ると酷のようにもみえる。
それにしても、食べ残しや売れ残りの食品を山のように捨てる現代に、登校し
てきた子供たちへ「お腹空いてる?」と聞かなければいけないとは想像ができ
なかった。
先日ある利用者様との話題を紹介してみました。