お葬式とあちらの世界 A

 
お葬式とあちらの世界 A

 何にしても、普段は「死」について考えることはあまりないように思う。しかし、
生きている以上死は必然であり、いつかは1人で死を迎えなければならない。
だから時々は死について考えて、今生きる意味も考えたいと思う。その意味で
はお通夜やお葬式はよい機会と言っていいのかも知れない。亡くなった人やご
家族へのお悔やみやお礼もあるが、お通夜やお葬式では通常僧侶の方から
のお話がある。その話は宗教の違いによっても様々だが、いつも何か得るもの
があるように思う。それは、参列者全員の厳粛な気持ちによるものかも知れな
い。人間にとって「死んだらどうなる」という恐れや不安、はたまた安堵は永遠
に答えのないテーマなのだろう。仮に、死んで意識も何もなくなるとしても、あち
らの世界に逝ったと、理解するのが考えやすいのかもしれない。すなわち現実
の世界からは居なくなることには違いないということである。
さて、介護の世界では心の障害と言うと、認知症がすぐに思い当たるが、認知
症を脳の機能低下のみと仮に捉えるなら、心の病と考えるのは少し性急な気
がする。記憶力や判断力が低下するだけなら、それに対応した生活環境を整
えれば日常生活に大きな支障はない。しかし、その脳の機能低下を本人も周り
の人間もうまく把握できないのが通常である。本人も周りも、「以前のしっかりし
た本人」と「脳の機能が低下している今の本人」の違いを把握できないから、コ
ミュニケーションの行き違いが生じてしまうことが多い。コミュニケーションの行
き違いは、疑心暗鬼となり不安を増大させる。すると日常生活に大きな支障が
出てきて、それがまた不安を増大させるといった連鎖が始まってしまうこともあ
る。そうなると、傍から見た本人はあたかも現実の世界にいるのではなく、あち
らの世界にいってしまったように取れることがある。すなわち、現実にある物が
無かったり、その反対に無いはずのものがあったりする世界に本人はいること
になるので、現実の世界だけで判断しようとする私たちには理解できないので
ある。
死後の世界はともかくとしても、心の病などで出会うあちらの世界は、現実の世
界を歪んだ鏡に映しているようなものと言う人がいる。複雑に歪んだ鏡なので、
左右上下が逆だったり順番が違っていたり、映ってないものまである。しかし、
現実の実像を映していることには変わりないので、現実が作り出したものには
違いないはずである。そう考えてみると、死後の世界や死んだらどうなるという
話も、人間が作り出した現実世界の投射かもしれない。
そのあたりの詳しい話は又の機会にして、葬儀とかでの僧侶の話の最後は、
いつもしっかり生きていこうという結論のような気がしている。この世のことは、
この世でけりがつくということなのだろうか。