見つからなかったらラッキー

見つからなかったらラッキー
目的のビルの前まで車でやってきた。しかし駐車場が満杯。少しぐら
いならいいかと、路上駐車して用件をすませる。思ったより時間が掛
かったが、駐禁は免れた。「見つからなかったらラッキー」である。一
旦停止、スピード違反、果ては飲酒運転など交通違反にまつわること
では、よくあることである。幼い頃は、宿題をしないで登校したのに、
先生も宿題を出したこと自体を忘れていたら、当然おとがめはない。
ラッキーである。このようなことは、人間生きていく上では時々あるし、
それはそれでよいと思う。
しかし、危険を伴うことや人命に関わることでは許されないだろう。ま
してや、公の者がしてはならない。だが、この国には「見つからなかっ
たらラッキー」ということが蔓延してしまったようだ。特に役所にまつわ
る不正は、「何年も前からの慣例であった」などと言い出す始末だか
ら困ったものである。このことは、交通違反や役人の不正だけではな
い。食品の偽装や工業製品の欠陥、医薬品の薬害、そしてあらゆる
犯罪においても「見つからなかったらOK」との考えが溢れているよう
な気さえする。
数年前、ラジオで「交通事故では、先に謝らない方がいい。それは自
分に過失があったことを認めることになるから」といった話を聞いたこ
とがある。交通事故の状況も様々であろうし、事故の相手にもよる
し、警察などの対応にもよるから一概にこの話の善し悪しは決められ
ない。しかし、「先に謝らない方がいい」との言葉が独り歩きしては、
人との付き合い方、自身の行動や言動が良かったのか適切だったの
かなどの判断や考察が疎かになってしまうような気がした。どんな小
さな失敗や事故もそのあり様を認めて、考え方を改めて原因をなくさ
なければ、また同じ過ちを犯してしまう。
さて、人間誰しも歳をとる。体も頭も衰える。そんな自分を自分自身で
受け入れることが出来ないと、生活に支障も出るし、腹も立つことに
なる。例えば、40代そこそこで老眼鏡のお世話になることは嫌な物
だ。大抵の人は、まだまだ自分が老眼であることを認めたがらない。
さっさとシニアグラスを買い求めればいいのだが、若いころの自分が
邪魔するのも事実だ。それは、私も順調に歳を取れば訪れる要介護
人生にも当てはまる。ホームヘルパーをしていて、自身の出来ないこ
とを認めなければ次には進めないことは解かっているはずであるが、
果して自分が要介護になった時それが出来るだろうか?もし、どこか
が不自由になっても、「一晩寝たら朝には元通り、動けるようになって
いるかも」と考えて、何日もの歳月を過ごして周りの者に面倒をかけ
るかもしれない。しかし、自分だけはラッキーとの考えはほどほどにし
て、自分の現状をしっかり捉えることは今からでも訓練しておかなけ
ればいけない。