■レッイビー新聞”2005年11月発行32号”■
当社の成り立ち その1
私は2000年まで、母を市外の老人ホームに預けて兵庫県で働いていた。しかし、介護保険制度が同年に始まり、母の入所していた施設は重度の方しか入所できない基準になった。そして「他を探してほしい」との連絡が入った。私は名古屋に帰り、勤務時間のはっきりした仕事を探して、母を引き取ることにした。
母の介護保険を申請し、ディサービスと訪問介護を利用することにした。ディサービスを週に2日、その他の日に昼食作りを含めてヘルパーさんに入ってもらった。最後のほうはなんとか、月曜から土曜まで昼食の心配はしなくて良かったと記憶している。しかし、朝食と夕食、それに休みの日の3食は必ず私がみなくてはならなかった。特にパーキンソンで朝の薬が欠かせない母が、私の出勤前に起きてディサービスを休むと言ったり、食事をとってくれない時は大変な思いをした。季節の変わり目や体調の悪い時はそんなことが続き、会社に遅れることも度々で、会社には迷惑もかけた。その上、私の不摂生もあり、通算10ヶ月程の入院を余儀なくされた。その時のケアマネさんの努力で母は老健に入所でき、事なきを得たが、私はそれまでの人生観を変えなければならないほどの闘病生活をすることになった。なんとかリハビリを続ける中、どうやっても今の介護保険の実情では、家族によほどの介護力、すなわち介護がほぼ専属でできる人や家族が何人かで協力してできなければ、どこかに預けるしか方法がないことを知った。母は、私を産む前から家族を支えるためにずっと働いてきた。今で言うキャリアウーマンだろうか。その頃絶えずハイヒールを履いていたため今では大変な外反母趾になっている。しかし、もらえる年金は企業年金を含めても1ヶ月10数万円である。とても有料老人ホームに入れるほどはないのである。その当時も老健は満杯で、母をいつまでも入れておけないことにも気づいた。私に気遣ってくれた老健の責任者は「半年後でも1年後でもいい、杉山さんができると思うときまで待つので、どうするか考えてほしい」と言ってくれた。私は、自分がホームヘルパーとしてどこかの会社に勤めて母を引き取ったらとも考えたが、当時は男性ヘルパーの需要は少なく見つからなかったと思う。
そこで、私は自分で会社をおこすことにした。そしてまず、友人の弁護士に相談に行った。弁護士はすぐに介護保険法のコピーをくれた。「杉山さん、あなたの言っていることは今の法が実際に行われていることとは違ったことになるだろう。何しろ、この介護保険法をしっかり読んで頭に叩き込んで理解し、この法を守り、この法でめしが食えると思うならやりなさい。たとえ、行政などと対立する場面があってもこの法を必ず守る立場さえあれば大丈夫。どうしてもの時は私たちが力を貸す」と言ってくれた。「何しろ、この法でめしを食うと心に決めることが大切だ」と・・・・・。
私は何度も介護保険法を読んで会社設立を決めた。そして、たとえ介護度が低く、また、私のように母子2人暮らしでも、子供が9時〜5時で働きながら介護すればなんとか安心して生活できるようなやりかたを考えることにした。当然、介護度が低くなれば、ヘルパーさんに来てもらう時間は少ない。ましてや当時、2時間以下の生活援助サービスはなかなか引き受けてもらえなかった。そこで、生活援助の介護報酬が2002年に引き上げられ、1時間2千数百円になったのを見て、これでどうにか3食をまかなえないかと考えたのだった。そこで考えついたのが、当社独自の配食サービスだった。
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