連載「昔、厚労省はゴールドプランを制定した」@母の介護と私

高齢化社会を想定して、厚労省は1989年にゴールドプラン1994年には新ゴールドプラン1999年にはゴールドプラン21を制定し推進してきた。内容や目標数の変化こそあれ、どのプランも「介護家族への支援が図られるよう、在宅福祉を基本として」いた。

当時母は、父と二人暮らしだったが、パーキンソン症候群と今で言う認知症の兆候が顕著だったため、母は精神病院の内科病棟の入退院を繰り返すようになっていた。老人が呆けて家族では手に負えなくなると、その頃よく利用したのが精神病院の内科病棟だった。母の場合も徘徊があったので、母の居た二人部屋には鍵がかけられ、病棟出入り口も鍵がかけられインターフォンで開錠するようになっていた。私は関西で仕事をしていたが、父が1998年に亡くなったので、母を今で言う老健に預けることにした。

さて、このゴールドプラン3種が制定された頃、国際連合では国際障害者年(1981)国際・障害者の十年(1983〜1992年)が指定された。その後アジア太平洋障害者の十年では2002年5月まで、その行動や施策が延長され、障害者の社会参加が国際的にも進められた。それまでは、どちらかと言えば施設入所や精神障害者の場合は長期入院が主流だった施策に転換が迫られたわけである。だから、介護保険制度もその流れの中で在宅福祉(介護)が基本となった。

そして2000年にゴールドプラン21にそって介護保険制度が施行された。ホームヘルパーの資格取得がブームとなり、どこの教室も満杯が続いた時代である。私は介護家族への支援が図られるようになったと思い、名古屋の実家にもどり母を引き取ることにした。

しかし、当時の私と母が受けられる介護サービスでは、仕事をしながらの在宅介護継続は無理なことになり、結局は私が入院することになってしまった。その頃に苦労したのは母の毎日の食事だった。だから、当社は立ち上げ当時から訪問介護と平行して配食を手がけている。

話は変るが、今のように病院で死ぬことが常識となり、要介護の人が施設や自宅以外の住居で生活する機会が多くなると、そうでない人が接すうる機会は極端に少なくなる。だから、人は歳を取ると能力が衰え病気がちになったり、物忘れが激しくなったりすることを頭では解っていても、実際にはそれに接したとはないし、ましてや世話をしたこともない。

だから、実際に自分の親が要介護になったときに、早々に自宅以外の施設や住居で面倒を見てもらうことを考える人が多い。それは仕方のないことだろし、昔とは家族構成も違うので今のように高齢者用の住居が沢山出来つつあるのもよくわかる。そのあたりは、想像するに介護保険制度を考案し改正したり運用したりする側の人もそうであろう。

しかし、要介護の人、なって行く人たちに、接することなく、人間は歳を取っていっていいのだろうか?

私が小学校6年生の時私のクラスでこんなことがあった。担任は時にはビンタが飛び出すスパルタ教育?の尾関先生であった。心臓に疾患のあるクラスメートがいて、胸には心臓の手術のあとがあった。私はそのような手術痕を見るのが初めてだった。フランケンシタインと陰口言ったりして気味悪く思っていた。

ある日何がきっかけだったか覚えてはいないが、クラスの大半の子供でその心臓病の子供のいじめが始まってしまった。私もそのイジメに参加していたように思う。

その教室に、血相を変えた尾関先生が飛び込んできた「何をしているんだ」と皆が怒られた。しかし、ビンタもお尻たたきも出なかった。どう怒られたかは覚えてないがすごく反省した覚えはある。

その日私は、その子の自宅に謝りに出かけた。親しい友人と出かけたかもしれないが、行ってみるとイジメに参加した大半の子供たちが来ていた。今でもそのイジメの様子と、謝りに行ったら家に上げてもらって大変歓迎されたことをよく覚えている。

私は、この事件で沢山のことを学んだ。イジメはしてはいけない。ましてや集団でするのはもっての他。悪いことをしたら謝る。心臓に疾患のある人には負担がかからない様に気遣いしなくてはならないが、それ以外は普通に付き合えばいい。どれもこれも、その子がクラスに居たから、尾関先生が居たから、謝りに来たクラスメートがいたから、解かったことだ。

人間、歳を取れば体も頭も衰えてくる。最期までかくしゃくとした人も居るだろうが、そうでない人もいるだろう。介護を必要とする人が生きていくことは、いままで社会を築いてくれたのでそれに感謝する意味で介護を受けて生活しているのであろうか?家族への負担、社会への負担で何の役にも立たないのか?

私はそうは思わない。歳を取り衰えても生きていること自体に意味があると思う。独居で滅多に外に出なくてもいい。家族や他の介護者としか接することがなくてもいい。その町内で生活できていることに意味があると思う。町内に子供がいる家があるように、町内に介護されている年寄りが生活している気配があれば、それだけで町内の雰囲気は変ると思う。それは、歳を取って、少々調子が悪くなっても生活できる言う現実が、その町内にあるからである。何かの機会に接したときの、その顔つきや挨拶の一言で十分伝わるものがあるように思う。